東野圭吾のミステリーが映画になる、と聞いてまず思い浮かぶのは「重厚な弦とピアノ」だろう。ところが2026年9月4日に全国公開された松竹映画『白鳥とコウモリ』が音楽に指名したのは、現代音楽とエレクトロニカとポップスの境界線を壊しつづけてきた1990年生まれの作曲家、網守将平(あみもり・しょうへい)だった。公開の2日前、9月2日には日本コロムビアから『映画「白鳥とコウモリ」Original Motion Picture Soundtrack』(COCP-42754/3,500円税込)が全29曲でリリースされている。映画より先に音が世に出る、という順番そのものが、この作品における劇伴の重さを物語っている。
藝大作曲科から“壊れたポップス”へ──網守将平という異物
網守将平は1990年、東京生まれ。東京藝術大学音楽学部作曲科を2012年に卒業し、2015年に同大学院を修了している。2011年に長谷川良夫賞、2013年には京都フランス音楽アカデミーでメシアン賞、そして同じ2013年の日本音楽コンクール作曲部門で第1位。経歴だけを並べれば、現代音楽の王道を歩く“正統派”に見える。
だが彼の名が広く知られたのは、その正統性を自ら裏切るような作品群だった。『SONASILE』(2016年)、『パタミュージック』(2018年)、『Ex.LIFE』(2021年)。いずれも一見ポップスの形をしているのに、聴き終えると形が少しずつ崩れている──電子音と声と生楽器が、教科書的でない比率で配合されている。近年は大貫妙子のバンドでキーボードを弾き、北海道発のデュオLAUSBUBの共同プロデューサーも務める(2026年9月9日にアルバム『society | lazy』がリリースされた)。NHK Eテレ『ムジカ・ピッコリーノ』では音楽監督としてシーズン10を支えた。つまり彼は、現代音楽・エレクトロニカ・ポップスという三つの回路を同時に持ち歩いている、劇伴界でも珍しいタイプの作曲家だ。
映画音楽への入口は2022年の『百花』。日本コロムビアの公式情報によれば、その後『サンセット・サンライズ』『8番出口』のスコアも手がけている。そして『サンセット・サンライズ』と今回の『白鳥とコウモリ』は、どちらも岸善幸監督作品。つまりこれは、監督と作曲家の二度目のタッグでもある。ドキュメンタリー出身で人間の輪郭を淡々と追う岸の演出と、情緒に流されない網守の音は、相性の良さがそのまま説得力になっている。
全29曲の曲名が、愛知県の地図になっている
サントラの曲目リストを眺めると、この映画の設計図がほとんど透けて見える。冒頭は「視線」「捜査」「お札」と、事件を外側から眺める短い断片が並ぶ。そして4曲目が「名古屋」、20曲目が「常滑」。29曲のうち2曲が愛知県の地名という配置は偶然ではない。原作は累計160万部を超えた東野圭吾のミステリーで、事件と家族の記憶が土地に縛りつけられている物語だからだ。劇伴が“風景”ではなく“地名”として鳴るとき、その音は説明ではなく証拠になる。
さらに「父の故郷」「父の思い出」「引越しの日」「川縁の二人」といった曲名が示すのは、この29曲が犯罪の側だけを担当していないという事実だ。曲名の並びを乱暴に三層に割ると、こうなる。
- 捜査と監視の層──「捜査」「監視カメラ」「時効」「ミス」「偽装」。事件を追う手続きの音。
- 家族と土地の層──「名古屋」「父の故郷」「父の思い出」「引越しの日」「常滑」。記憶が沈殿していく音。
- 剥がされていく層──「疑惑」「真犯人」「詐欺師」「真実」「涙」「二人の希望」、そしてラストの「煙突」。
21曲目にタイトル曲「白鳥とコウモリ」が置かれ、直後に「真犯人」が続く構成も示唆的だ。白鳥とコウモリ──光の側と闇の側という二項対立を、音楽が真ん中で一度受け止めてから、物語が反転していく。劇伴のアルバムとしてこの並びは、映画を観る前に聴いても十分に一本の物語として機能する。
主題歌は大森元貴「灰色」──白と黒のあいだを誰が埋めるのか
主題歌は、Mrs. GREEN APPLEの大森元貴がソロ名義で書き下ろした「灰色」。タイトルが白でも黒でもなく“灰色”であることは、この企画の核心をそのまま言い当てている。白鳥かコウモリか、加害か被害か、そのどちらでもない領域を歌が引き受けるのなら、劇伴が担うのはその灰色の濃度を一場面ごとに調整する仕事だ。
ここで網守将平というキャスティングの巧さが効いてくる。彼の音楽はもともと、明快な感情の記号を避けてきた。長調でも短調でもない響き、生楽器なのに合成音のように聴こえる質感、電子音なのに呼吸しているような揺れ。ミステリーの劇伴で最も危険なのは、音が先に「この人が犯人です」と言ってしまうことだ。網守の書法は構造的にそれをやりにくい。松村北斗と今田美桜のW主演が背負う“どちらとも言えなさ”を、音楽が横から補強せずに、ただ同じ温度で並走する。
劇伴の世界では、現代音楽出身の作曲家がエンタメ大作に呼ばれる流れがここ数年はっきりと太くなっている。『白鳥とコウモリ』全29曲は、その流れの中でも「技術の誇示」ではなく「判断の禁欲」で勝負した一枚だ。映画館を出たあと、事件の顛末よりも「名古屋」や「常滑」の数十秒が耳に残っている──そういう聴後感を狙って設計されたサウンドトラックだと思う。