2008年10月2日。サークル「カタテマ」が一本のフリーゲームを公開した。タイトルは『いりす症候群!』。それからちょうど18年後の2026年10月2日、このゲームのオリジナル・サウンドトラックが、Spotify、Apple Music、YouTube Music、Amazon Musicほか主要サービスで配信される。作曲はwatson。ゲーム公開から18年を経ての、これが初の公式音源化だ。公開日と配信日が同じ「10月2日」で重なるのも、長く待ったファンへのささやかな贈り物に見える。
「即死系物理パズル」を支えた、ダウナーなピアノ
『いりす症候群!』は、作者・てつによるフリーウェアの落ち物パズルだ。マウスクリックで白いブロックを撃ち出し、上から降ってくる色とりどりのブロックの軌道を変えて、同じ色同士をぶつけて消す。物理演算エンジンのBox2Dを使っていて、弾かれたブロックの転がり方はまるでビリヤード。底まで落ちたブロックは「情実ゲージ」を削り、尽きればゲームオーバー。得点が一定に達するごとに物語が少しずつ進んでいく──そして、その物語のある演出がプレイヤーに強烈な印象を残したことで、このゲームは「知る人ぞ知る名作」として語り継がれてきた(ここはネタバレ厳禁の領域なので、未プレイの人はぜひ自分で)。
当時のVectorのレビューでも「BGMもゲームの世界観にマッチしている」と評されていたように、この作品を覚えている人の記憶には、あの静かな音楽がセットで残っているはずだ。2009年12月のコミックマーケットで頒布された追加版『いりす症候群!滅』のBGMとして公開されている曲名を並べてみると、その空気がよくわかる。「10時間くらい天井を見ている」「今日も誰とも喋らなかった」「着信ゼロ」「あんな子にされてみたいなと思った」。どれもピアノを軸にした“ダウナー”な曲で、曲名だけで一人の部屋の温度が伝わってくる。派手なパズルの画面の裏で、音楽はずっと孤独の側に立っていた。
15曲+新録リアレンジ4曲+ボーナス1曲の20トラック
今回のサントラの中身を整理しておこう。
- オリジナルBGM:15曲(ゲームで鳴っていた音そのもの)
- BGMリアレンジ:4曲(新たに制作、ハイレゾ対応)
- ボーナストラック:1曲(『愛と勇気とかしわもち 邂』のプレイBGM)
合計20曲。注目はやはりリアレンジの4曲だ。公式は「オリジナル版とは異なる魅力をお楽しみいただける」としていて、18年前の音色をただ磨き直すのではなく、いまのwatsonが同じメロディにもう一度向き合った“2026年版”が聴けることになる。当時PCのスピーカーで聴いていた音と、ハイレゾで録り直された音。その差分こそが、この18年という時間の手触りなのかもしれない。
保育園のお昼寝で鳴っていた「天井」の曲
作曲のwatsonは、商用利用もできるフリーBGM・音楽素材サイト「MusMus」の運営者でもある。YouTube動画やゲーム、配信など、作者の名前を意識しないまま彼の音楽を耳にしている人は相当な数にのぼるだろう。つまりwatsonは、“名前より先に音が届く”タイプの作曲家なのだ。
それを象徴するのが、2023年1月にGame*Sparkが報じた出来事だ。海外のゲーマー/コスプレイヤーのLunar Phoenix氏が、保育施設のお昼寝の時間に「10時間くらい天井を見ている」を子どもたちに弾いて聴かせている──と投稿した。「とても美しくて心地よい曲なのに、誰もこの曲の由来を知らない」と。これにwatsonは「どこかもわからない異国の地で私の曲が演奏されて子供たちが夢うつつに聴いている・・・胸が熱い。」と応えている。今回のサントラ配信のニュースでも、このエピソードが後押しの一つとして紹介された。
非公式の英語パッチが出回り、繁体字・簡体字中国語版やスペイン語版まで存在する『いりす症候群!』は、もともと国境を越えて遊ばれてきたゲームだ。けれど音楽だけを“公式に”持ち運ぶ手段は、この18年間なかった。ゲームを起動しなくても、あのピアノをイヤホンで聴ける。それだけのことが、どれほど多くの人を待たせていたか。10月2日、再生ボタンを押す瞬間に答えが出るはずだ。
劇伴ポータル的・聴きどころメモ
ゲーム音楽は、プレイ中は“ループするBGM”として耳の端で鳴り続け、音源化されて初めて一曲として正面から向き合える。『いりす症候群!』の曲は、とくにその落差が大きいタイプだと思う。パズルに必死になっていたあの頃は気づかなかった和声の翳りや、繰り返しの中に仕込まれた小さな変化。オリジナル15曲で記憶を呼び起こし、リアレンジ4曲で“今の音”を確かめ、最後にボーナストラックで同じサークルの別の作品の空気に触れる──そんな順番で聴くのがおすすめだ。天井を10時間見つめるような夜に、たぶんこれ以上似合う音楽はない。